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2016-11-22

映画「永い言い訳」の本棚について

映画のワンシーンで使われる「本」は一体どこから来ているのか?についてわざわざ思いを巡らせる人はそんなに多くないんじゃないかと思います。

バリューブックスで買い取りさせて頂いた本の行き先の一つとしてあるのは、「映画製作会社への貸し出し」。

そんなにたくさんの映画に貸し出しをしてきたわけではないけれど、すばらしい映画のワンシーンを描くことのお手伝いをさせて頂いています。

今回ご紹介したいのはそのうちのひとつ、西川美和監督「永い言い訳」。

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「ゆれる」や「ディアドクター」の監督でもある西川美和監督。

ことの善悪や真偽が分からないことの方が多い、この世界の不明確さを描くのがなんて上手なんだろう。

と、「ゆれる」を観た時のぞっとした気持ちを、映画に出てくる吊り橋の風景と共によくおぼえている。

東日本の震災があった日から半年くらい経ったのち、震災にこころ痛めながらも、「綺麗なエピソードばかりが伝えられることに違和感を感じた」西川監督は、後味のわるい別れ方をしたまま妻が帰らぬ人となった小説家の男。を主人公に、映画を撮るのではなく、まず小説を書き始めたそう。

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溺れるように小説を読んだのはいつぶりだろう。

この本を手に取ったのは、人混みの中どうしようもない孤独にさいなまれ、すがるように本のある場所を求めて入った古本屋。なんだか美しい言葉が読みたかった。バリューブックスが映画「永い言い訳」に書籍を貸し出していることと、その映画が公開されたという知らせを選書したスタッフに数日前に聞いていたからだろう、いくつもの本の中からピタリとその本と目が合った。

今思えば、孤独に溢れたこの本をあのタイミングで手に取れたのはとても幸運で、帯に書かれている言葉を探すようにしてぱらぱらとめくり、待ち合わせしていた人が来るまでに2度、目の前が水面みたいに涙でいっぱいになって歪んだ。

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小説を1日で読み切って、翌日すぐに映画館に向かう。

主人公が小説家、ということもあり、主人公の自宅でのシーンに多く本が使われていました。書籍の貸し出しをする場合は、あらかじめどんな本が必要かのリストを出して頂くことが多いのですが、それはジャンルの指定だったり登場人物の性別や年齢、趣味がざっくりと伝えられ選ぶ場合だったり様々。後日「永い言い訳」用の貸し出し書籍の選書をしたスタッフからリストを見せてもらうと、そこには日本文学・海外文学の作家の名前を中心に、哲学・思想、詩人など100近くの作家指定があった。そこまで細かい指定はなかなか珍しく、そのリストはただ本があればいいというわけではないのだ、ということを強く訴えかけていた。

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見終わって、ああ、これは映画でしか描けない「永い言い訳」だ。と思いました。

そう思えたのは見終わって直後ではなく、実は見終わってから「なぜ、なぜ。」とずっと考え続けてたどりついたことでした。

なぜ、と思っていたのは小説を読んで一番胸が掴まれ苦しかった、人生のほんとうだ、と思ったシーンが描かれていなかったから。

なぜ、小説であったあのシーンを。なぜ、あの言葉を削ったのか。なぜ。なぜ。それでは物語の深みが薄れる気がしてならなかった。

どうしてもその答えを見つけたくて、パンフレットを買い隅から隅まで読み、監督のインタビュー記事を読み、エッセイを読み、見れる限りの動画を見た。

最後に見たのは、映画のパンフレットに付属したDVD。

答えを探してさまよっていたわたしは、思わずそれを見て泣いてしまった。

そのDVDには、本木雅弘さん演じる主人公「津村啓」がインタビューを受けてそれに答える、という映像が記録されているのですが、少しだけ話してしまうと、途中から差し障りのない受け答えにしびれをきらした監督が、本木さん自身のことに迫る質問を始めます。

その質問に本木さん自身として答え、自嘲するように鼻で笑い「わかります?」と監督に問い返すその顔は、まぎれもなく本木雅弘さんですが、恐ろしいほどに「津村啓」を感じる顔で、妻が死んでも泣けなかった、自意識のかたまりの、だけどどうしたってチャーミングな部分のある「津村啓」以上に本木さんはその要素を持っていると思わせる顔と言葉でした。

同じことは、「津村啓」と対になるように描かれる愛妻家で突然の事故で妻を失った「大宮」を演じた竹原ピストルさんにも言えることで、竹原ピストルさんが「永い言い訳」の話からヒントを得て作ったという「たった二種類の金魚鉢」という歌を歌うライブ動画を見たときに、ああ、「大宮」はトラック運転手をやめて歌をうたうことにしたのだ。とはっきりと思った。

頭の中で思い描いた小説の大宮も、映画の大宮も、歌をうたう竹原ピストルさんも、まったく同一人物だ、と思ってしまうほど「大宮」の要素を竹原ピストルさんは持っていて、ギター1本で全国行脚してひとり戦い続ける、という大宮と違った人生の厚みも持っていた。

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小説という孤独に描ける世界とは違う、映画、という舞台において、良くも悪くも、原作者や監督とは違う人の解釈や力がそこに入り込んでいくとき、西川監督は、ひょっとしたら自分が書いた原作小説よりも、本木さんや竹原ピストルさんの持つ人生からにじみ出てしまう、「津村啓」の要素と「大宮」の要素に、映画をある程度委ねたのかもしれない。

そのことに思い当たったとき、小説にあったはずの、読み手を突き放すようなあのシーンを削ったこと、あの言葉を削ったことが腑に落ちた。

「人生は他者である」

小説、映画ともに重要な言葉として綴られるこの言葉を、この映画そのものが体言している。そう思った。

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本が無くても映画は作れる。それはほんとうにそうだとも思うし、ただの小道具であることに変わりはないと思う。

それでもこの映画の中の、しかも小説家の本棚という血となり肉となりうる大切な部分の演出を、ほんの少しでも手伝うことができたということはとてもうれしいし、役目を終えて帰ってきた本たちを少し誇らしくも思います。

誰かが読み終えた本を、違う誰かへ。

バリューブックスにある本がたどる道筋は、必ずしも誰か個人へというものだけではなく、今回のような道筋を辿る本もあります。

「永い言い訳」ぜひ、小説も、映画もどちらもお楽しみください。

posted by 池上 幸恵

長野県上田市にてバリューブックスが運営する本屋「NABO」(ネイボ)店長。
NABOとはデンマーク語で「隣人」の意味を持ち、「本で町を豊かにする」をテーマに掲げ、毎日小さなイベントを開催したり、バリューブックスの200万冊の在庫を生かし3ヶ月に1回店内の半分以上の本を入れ替える本屋。
この秋こそはきのこ狩りに出かけたいと思っている。

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